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篠峯 [入荷予定]

20101115

篠峯愛山純米大吟醸生詰瓶燗酒2009BY
   千代酒造株式会社

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 社長になった堺さんがお酒造りに関して最近よく口にするのは、「人を感じさせないお酒造り」ということです。出来るだけ「自然なお酒造り」を心がけることで、より蔵のある櫛羅の「風土」をお酒に織り込めるかもしれないと考えているからですとお話をされます。

 清酒造りは同じ醸造酒であるワインとは違い、醸造行程における人の操作は多岐に渡ります。人の手を遠ざける事を単純に自然であると考えると、お酒造りそのものを否定しかねませんし、また成り立ちもしません。機械と人間あるいは人と自然の関係と、そこに介在する風土という問題を、いびつな形で捉えてしまいがちです。風土イコール自然ではないと私は考えています。

 風土と捉えられているものが、自然から人へと一方的に働きかける存在であると考えてしまうと、人と風土のかかわり合いを決して変える事のできない、不変のものとして捉えてしまいますし、そこにはまた天与としての自然への神格化の契機が発生してしまいます。
 フランスワインの銘醸地であるブルゴーニュやボルドーが、世界で最高のワインを生み出す大地であり、その風土性あるいはテロワールと言い換えもされるものが、神の恩寵であるといった言説が生まれてきたりもします。
 銘醸地の誕生には人の手が自然に加えられ、その行為が風土という形で表出してくるものであるということを語っている書物に、ロジェ・ディオンの『ワインと風土』という本があります。ブルゴーニュにおけるニュイとボーヌの酒質の違いがどのような形で発生してきたかを、自然条件からだけでなく過去の社会条件が大きく関わってきたことをその本の中で指摘しています。
 おそらくは同じようなことが各地に存在するはずです。

 清酒の世界における銘醸地は、江戸期は下り酒として有名な灘の地でした。地酒ブームの先駆けとなった新潟の地は淡麗辛口という言葉を生み出しました。あるいは最近では、スローフードというキーワードでもって自らの風土性の優位をそれぞれ独自のものであるということを謳いもします。各地の風土性が偶然にその地にもたらされた自然の恩恵のようにも語られますが、決して風土が自然そのものとしてあるのではないという認識が欠けています。近年、日本では里山という在り方でもって、自然と人との関係、そしてその関係性こそが風土と呼ばれるものであるという考え方が広がりつつあります。「里」という農村と自然とが境界する場所は今後とても重要な概念となってくるでしょう。
 
 千代酒造さんのある櫛羅の地の風土性は、そこに住まう人達による自然との関わりの中で立ち現れてくるものといえます。自然から与えられるだけのものではないし、人の手のみによって造り出されるものでもない、働きかけから生み出される関係性それこそが風土と呼ばれるものである。そのような思いの中にたった時に生み出されてくるお酒こそが地酒と呼ばれるものの一つとなっていくのだと思います。

 篠峯の愛山のお酒に関してはホームページからになります。



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