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シャトー・メルシャン [入荷予定]

20111121

シャトー・メルシャン


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 写真はメルロー葡萄の蕾みです。
 店の前に置いてある鉢植えの幾つかには、今の季節には枯木の様になった樹があります。数年前にメルシャンさんから頂いた長野メルローの苗木が育ったものです。季節が来れば、ほんの少しですが実もつけます。

 そして、長野県で育てられたこの品種からはこんなワインが出来ます。



シャトー・メルシャン・アンサンブル・藍茜


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 長野県産メルロー種をベースにマスカットベリーAと色調を整えるためにほんの少しアリカント種をブレンドしました。

 もうひとつ。

シャトー・メルシャン・アンサンブル・萌黄


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 同じく長野県産のシャルドネ種をベースに甲州種によるアクセントをつけています。

 どちらもにも、日本のワイン造りの到達点の一つがあります。

 (お買い求めの方はこちらからになります)

 以下は簡単に日本産ワインについてです。


 日本におけるワイン生産が明治期以降にどのような歴史を辿ってきたかを知るにつれて、外国産には沢山の良いワインがあるにもかかわらず、国産ワインへの愛情は日々深まりつつあります。明治の開国に始まるといわれる日本のワイン産業は、殖産興行の一貫として政府が旗ふりとなって奨励したことを起点としており、これは何も特異なことではなく当時には広くどの産業界にもあったことです。欧州との風土の違いがあり葡萄栽培は多難を極め、その黎明期に決定的な試練となったのはフィロキセラ禍でした。中央政府による三田育種場等を通じての欧州葡萄品種の全国的な頒布を試みていたことが、皮肉な形で被害を拡大させたようです。そのため早いうちからラブルスカ種の栽培は広がり、一方で甘味料を足したタイプのワインが興隆を極めることになります。この成功は一方で競争相手へのやっかみも生み、今でも日本酒の酒税法では通常のワインである果実酒と甘味果実酒が別のものとして取り扱われています。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の世界ではありませんが、酒類業界の中にも悲喜こもごもの顛末があり、現代へと至っています。逆に、現代への地続きの部分を振り返ってみると数年前に流行った梅ワインやボジョレー・ヌーボー等の存在が、笑えない自分を写す鏡ともなっていたりもしますね。

 日本に置けるワイン生産は、日本酒という高い醸造技術を持つアルコール飲料があったこと、また葡萄の生食市場が盛んなこともあって、畑での作業よりも醸造工程に重きを置く傾向がありました。ただ、最近では欧州との情報や人の交流が盛んになり、畑での葡萄造りこそが良質のワインを生む契機となりえるという考えを持つようにも成っていて、ワイン造りは工業ではなく農業という認識が共有されつつあります。欧州品種への植え替えや垣根栽培の導入等もその一つで、何故かしら日本での葡萄栽培の難しさとして取り上げられていた事々への克服がなされてもいます。
 近年は特に若い造り手が生み出す秀逸なものが市場にも現れ始めていて、以前なら本格的なスティワインには仕上げてこなかったラブルスカ種等でも意欲的なものがあちらこちらと見られ始めたりもしています。

 ワインという飲み物が欧州の人々とって気軽な毎日で飲み物であることを考えると、日本で偉大なワインとされてきたフランスのボルドー地方やブルゴーニュ地方のものと日本の現在あるワインを単純に比較することがナンセンスであることに、今の人達は気付き始めています。
 確かにワインが国境を越えて取引される輸出品目に成り得ることを意識すれば、世界的に評価の高い産地との競合の中で自らのワインに存在感を持たせることは大切ですが、一方で日常に飲むワインとしての役割を考えれば、目指すワインにスタイルはもっと判りやすいものであっても良いはず。
 やや文明論的な言い方になりますが、ワインは健全な水を得るための一つの手段であり、日本酒とは酔うための飲料であるのです。どちらもが神様への捧げものとしての有り様は共通していますが。

 実際にワインが売れて行く現場では、価格的なパファーマンスが凝縮感で判断されることが多いようで、これはカリフォルニアやチリ等の新世界のワインが評価される一因となってもいます。ただ、依然として欧州のワインが世界標準であるのには、もうひとつ重要なことである複雑感というものがります。葡萄樹を痩せた土地に植え乾燥を与えたり、あるいは密植させたりするのは、葡萄の根が深く大地に伸びていくようにという意図があります。これは土地の層に対して垂直に根が入り込むことで様々な土の成分が葡萄の樹にもたらされ、出来上がるワインに多様な味わいが表現されると考えるからです。
 では、日本のワインがその特質として表現できるものとは何であるべきでしょうか。

 ここ数年間の日本産ワインの成功が高い評価を得ていることの要因に、「甲州」と「マスカットベリーA」の二つの品種からカジュアルなスタイルから脱皮した、一つ上のランクのワインが出来つつあることです。
 甲州ワインは判りやすい果実味や樽のフレーバーを纏ったものではなく、シャープできめ細かな酸とグリ葡萄特有の苦みを心地良く感じさせるものへ、その洗練の方向の舵を切っています。油脂と甘味を中心とした西洋料理にではなく、脂の無い出汁と素材感を活かした調理方法に合う、力強さではなく繊細さを基調としたワインへと変わりつつあります。
 マスカットベリーA種も同様に、タニックなものではなく、ピノノワールやシュペート・ブルグンダーに通じる様な、赤いベリーを感じさせる酸と果実味を大切にし、適度な樽からの抽出分で熟成を行うようになっています。こちらも、日本料理には欠かせない醤油や出汁の旨味と寄り添うワインとなっています。

 ワインを飲んでいて考えさせられるのは、どの個性が優れているという相対的な評価よりも、それぞれの葡萄品種、産地の特性、あるいは造り手の考え方がどれだけ明確に表現できているかを大切にしていて、そのワインが優れている要因に他の産地との比較には重きを置かないことだといえないでしょうか。
 確かに有名な評論家による格付けや点数評価等はありますが、それは多様なワインの世界を歩くための便宜的なグリッドみたいなもので、どの様にそこを通り、どこに向かうかということには、個々の嗜好といったものがとても重要な意味を持つことになります。様々なワイン書は地図みたいなもので、自分に目的と成る行きたい場所がなければ、どこにも辿り着くことはできません。

 思うに、ちょうど現在の日本産ワインは、飲み手を試す位置に立っているといえないでしょうか。
 世界的に偉大なワインと肩を並べる程ではありません。かといって生産地のみでのローカルな評価に終わる程に、洗練度の低いものでもありません。逆に、世界に存在する多くのワイン産地の中で日本産ワインがどの辺りに存在しているのかを、飲み手に語ることを求めているのかもしれません。試されているのは、造り手ではなく飲み手あるいはそれを評価する側がどのようにワインという飲み物を考えているか、その答えを求められている気がします。

 (この文章を書くにあたっては、麻井宇介さんや山本博さん等の本を参考にしています)







 


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