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雨の通り抜け。 [雑記]

20080417

何故か休みの日には、目覚ましがなくても予定通り目が覚めます。
昨日は、午前6時にはベッドから出て、7時前にはウォーキング開始です。
ほぼいつものコースで、JR野田駅を通り抜け、
野田城跡と野田戎神社を経由して、レトロな佇まいのメリヤス開館へ。
福島天満宮の前を通り過ぎ、旧出入橋を渡り、朝の北新地界隈を抜けていきました。
御堂筋で南に向けて、大江橋と淀屋橋を越え、
朝食代わりのパンをコペンハーヴェスと購入し、北浜界隈から堺筋本町、
谷町四丁目へとジグザグにオフィス街を抜けて行きました。
途中、道修町のあの古い建物に見とれたり、
シェワダさんの入るレンガ造りの建物を見て歩きました。
雨はなんとか持ちこたえ、目的地の難波宮へは予定通り9時過ぎに到着です。
古い大阪の地図を見てみると、大阪にまつわる様々なイメージが、
今ある姿の大阪からだけではなく、過去に積み重ねられてきた
様々な風景が幾重にも塗り込まれたことがよく解ります。
難波宮のある上町台地の北端のこの地からは、まさに大阪の歴史が見渡せるようです。

復元された大極殿の真ん中に座り、さっき買ったパンを食べて朝食を済ませ、
もう一つの目的、大阪歴史博物館にあるなにわ歴史塾で資料探しです。

前回紹介された『古版大阪案内記集成』の酒に関するページのコピーを取り、
他にも興味深そうなのをいくつかピックアップしました。
大阪の地方史研究協議会というのが出している『大都市大阪と摂河泉』という本の中に、
灘目の水車技術に関する論文がありました。

産業革命以前の有力な動力源であった水車は、精米だけでなく、
油を絞ったり、小麦の製粉にも用いられていて、
特に灘における水車の利用は、江戸初期には絞油に用いられる方が多かったそうです。
灘酒の伊丹や池田のお酒に対する優位のひとつが、
六甲山から下る河川の急流を利用した、水車精米にあるといわれています。
江戸期までのお酒は、麹米と掛米ともに精白する諸白とともに、
麹米には玄米を用いる片白とよばれるものがありました。
麹米と掛米をともに精白する諸白の方が、玄米を麹米に用いる片白よりも
高級酒として扱われたのは現代の吟醸酒と同じようなもので、
片白のお酒に対して、諸白のお酒はいわば淡麗辛口のお酒です。
人力に頼ることが中心だったそれまでの精米技術が、
水車を利用した精米に切り替えられることによって、
格段の高精白米が得られるようになり、
灘における酒造りの生産性、更に酒質がより高まったといわれています。

現代ではイメージしにくいですが、
当時の酒造りの現場には先端技術が集まっていました。
原料である米は、葡萄等を利用する果実酒と比して、比較的に保存や移動が容易です。
江戸期を通じて、集約的に労働効率のあがる産業として、
日本酒造りは産業装置化していったともいえなくはなくて、
現代でも手造りを中心とする蔵では、100石に対して蔵人一人の労働力といわれますが、
これは当時も今もあまり変わらない数字です。
日本酒の仕込み行程そのものは、江戸期に完成されているといえます。
後に、その水車精米が電力を利用した精米機に変わったり、
上槽がヤブタを利用したりで、個別部分での効率化には向かっていますが、
基本的な生産性は変わらない産業であると言えます。

その他にも、酒槽や酒袋、薬灰等の道具面での歴史も、
もう少し広くあたる必要がありそうですね。

で、その後は造幣局の通り抜けにいきました。
12時前くらいだったのですが、雨にも関わらずかなりの人出で、
あまり楽しむ余裕はありませんでした。




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